おもしろい文章を書くためにはどうすればよいのか(よかったのか)を考えています。たとえば僕にとって、キリストとキリスト教の話、キリスト教的精神への批判の話なんかはものすごくおもしろいです。それは反省とか自虐といった反動的な力を推進力とした動きと、その力と運動が正当性を得ようとする一連の振る舞いの話です。そして、それらの力や運動や振る舞いが「かっこ悪い!」と言われる話がおもしろいということです。
キリストという良い人がみんなの罪を一身に背負って処刑された。だからみんな「キリストさんごめんなさい!」と反省するし、「ごめんなさい」という精神的借金を返すための仕事をしなくちゃいけない。この反省、自虐、借金返済は反動的ですし、雄々しいとは決して言えないし、かっこ悪い気がする。でも、この弱々しいかっこ悪さを我慢して受け止めてさらにどんどん反省して自虐して借金返済するのが良いことなんだ!むしろ弱々しさが正義だ!正義は必ず勝つ!だから俺たちはいつまでもあの人と同じ弱者でありたい!キリストは迫害されて処刑されちゃうほど弱い人だったのだから…。こんな感じの弱者正義論もかっこ悪いですよね。負け犬の遠吠えみたいだし。弱者であることを逆手にとって正義(正当性)を掴むっていう卑怯さにおぞましささえ感じます。
僕はテキストサイトの話をしています。テキストサイトはおもしろいだけじゃなくかっこよかったという話です。テキストサイトを読んで「かっこいい!」と思ったのは僕ですので「僕はなぜテキストサイトをかっこいいと思ったか」という自己分析になります。
こういったかっこよさ議論で、テキストサイトのサブカルチャー、カウンターカルチャーとしてのかっこよさはさんざん語りつくされてますよね。僕もそういうところに惹かれた部分もあります。そして、テキストサイトブームを経てカウンターを失って、かっこよくなくなっちゃった、みたいな話はよくあると思うので別の話を書きます。
僕たちはテキストサイトがカウンターを失っていくのを、ただ指をくわえて見てただけなのか?っていう話です。
結論から書きます。テキストサイトは、カウンター(反動)がかっこよさを失っていくことに気づいて(気づかなくてもいいけど)、むしろそれをかっこ悪いものとして(しなくてもいいけど)、代わりに純粋性をおしだしたのではないか。
最初のほうに書きましたが、反動的な動きをかっこ悪いと思う感性というのは確実にあります。もちろん反動的な動きがかっこいい場面(カウンターカルチャーかっこいい!)もありますが、その反動性に立脚したかっこよさが失われていく時流の中で、反動性がもともと持っていたかっこ悪さが露呈される中で、テキストサイト的精神は純粋性の中にかっこよさを求めたのではないでしょうか。テキストサイト的精神は反動から脱却し、自虐者、反省者、対応者であることをやめて、漆黒の意思を志向したのではないでしょうか。
極端な例ですが「あずにゃんぺろぺろ」というテキストは純粋性に立脚したそれです。僕たちはテキストサイト後期に似たような文章を多数目撃しているはずです。それはハロプロヲタテキストであったり、アイドルマスターとか対象は何でも構わないのですが、「加護ちゃんぺろぺろ」「高槻やよいちゃんぺろぺろ」みたいな「愛・純粋性」に軸足を移したテキストサイトの出現をその一端とみなすのは不自然でないはずです。
つまり、カウンターカルチャーを担う「知的な構築者」だったテキストサイトが、自身の反動的な力の失効後に、反動的でない純粋な力を探求することになったということ。この流れは、以前は自虐日記やネタテキスト書いてたサイトが、急に「あずにゃんぺろぺろ」とか書きだしちゃうさまと同一の流れであること。これらの流れは仮定であるけれども、こういう流れを含めて、僕は「テキストサイト的精神」はかっこいいと思っています。
もちろんぺろぺろするだけが純粋性じゃないです。反動性の「代わりに」純粋性が持ち出されるということもないと思うのですが、うまく書けませんでした。ただ「反動から純粋へ」というキャッチフレーズが、僕がかっこいいと思った「テキストサイト的精神」を解くヒント(僕自身へのヒント)になると思いますので久しぶりにアップしとく。